湯豆腐のようななにか

はじめに少しだけ気合を入れて。その後はだらんと。

Narcissu 総評感想

Narcissu 総評感想
執筆者:やーみ@Suxamethonium28

※ネタバレ注意

※素人の戯言注意

 

 片岡とも氏がやってみたかったことをやった本作、様々な商業的メディアミックスに展開していくこととなった大元の一作である。

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Narcissu"s"の絵 

 

 

 

 さて本作のプレイ終了後あとがきに準じるところ(Product)において、片岡とも氏はこの作品について以下のように語っている。

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以下引用
……プレイして頂いた方が、

つまらんかった、面白かった、メッセージを感じた、
なんかよく分からん、嫌悪感を抱いた、ハッピーじゃない、とか

とにかく、どんな感じ方であれ、

そう感じたならば、それがその人にとっての、
この作品の全てなのだと思います。

制作者である自分にとっては、

”眩しかった日のこと、そんな冬の日のこと”

が全てだと思っています。
以上引用

 

 引用の通りこの作品の「味わい方」というものはプレイした当人にのみ委ねられている。だからこそ僕が、僕なりに胸に居した様々な戯言に関して筆を執り、明文化しておくものである。

 

 

 この物語を味わう際には知っておいても良い内容が二点存在する。これらを知っていると登場人物たちの思考の流れが概ね理解しやすくなるからだ。第一の内容がキューブラー・ロスによる「死の受容モデル」と呼ばれるもの、第二の内容が「全人的苦痛」という概念である。両者について概説していく(この感想を書いている筆者は専門でも何でもなくただの素人なので鵜呑みにしないように。別にacademiaではないゆえ面倒なので私はwikipediaなどをフル活用していくが、読者諸兄は正確な説明が必要な場合には適切な文献に当たること)

 


 まず第一のキューブラー・ロスによる「死の受容モデル」について概説していく。このモデルは死を告知された人がどのような感情的変遷をもって受容に至るかを示したもので五段階あるのだという(1)。なお全ての人がこの経過を辿るわけでは全く無い。

以下引用
 第1段階 「否認」
 患者は大きな衝撃を受け、自分が死ぬということはないはずだと否認する段階。「仮にそうだとしても、特効薬が発明されて自分は助かるのではないか」といった部分的否認の形をとる場合もある。
 第2段階 「怒り」
 なぜ自分がこんな目に遭うのか、死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
 第3段階 「取引」
 延命への取引である。「悪いところはすべて改めるので何とか命だけは助けてほしい」あるいは「もう数ヶ月生かしてくれればどんなことでもする」などと死なずにすむように取引を試みる。神(絶対的なもの)にすがろうとする状態。
 第4段階 「抑うつ
 取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われなにもできなくなる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。
 第5段階 「受容」
 部分的悲嘆のプロセスと並行し、死を受容する最終段階へ入っていく。最終的に自分が死に行くことを受け入れるが、同時に一縷の希望も捨てきれない場合もある。受容段階の後半には、突然すべてを悟った解脱の境地が現れる。希望ともきっぱりと別れを告げ、安らかに死を受け入れる。
以上引用

 以上の記載はwikipediaを丸コピペしたものである。登場人物たちが死の受容モデルにおいて「今どの段階であるか」を念頭に置いておくと、感情変遷がわかりやすくなるであろう。
 まず物語冒頭のセツミに関しては中学一年の頃に発病し、そこから十年程度の時間をかけて「七階」へ移動している。主人公と出会ったときの彼女は概ね自らの死を受容している状態であると考えられ、これは第五段階にあると思われる。過去回想シーンでは第四段階を彷彿とさせる記載も見られた。

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セツミの慟哭

 

 逆に物語冒頭の主人公に関しては幾度となく「実感がなかった」旨のモノローグが存在する。これは「脳が理解することを拒絶している」と考えると自らの死を否認しているのでは無いかと考えられる(防衛機制のうちの「否認」に該当すると思われる)。なお物語最後においてセツミに声を荒げる主人公のシーンがあったが、これは彼女と自分を同化した上で第二段階「怒り」に移行したものと思われる。

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 この主人公とセツミとの受容段階の差は文字通り死期を悟ってから彼彼女らが「七階」と関わった時間の長さの差でもある。そしてこの差こそが物語をDriveさせていくTriggerであった。

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 さて第二の内容「全人的苦痛」の解説に移る(以下参考文献2を意訳している)。慢性的でかつ致死的な病に侵された患者さんは様々な種類の「苦痛」を感じると言われている。それらを総合して「全人的苦痛」と呼んでいるようだ。全人的苦痛は「身体的苦痛」「精神的苦痛」「社会的苦痛」「Spiritual Pain」の四種類に分類される。「身体的苦痛」は文字通りであり、病による痛みや倦怠感などが挙げられる。主人公がパチンコ屋において出玉を盗もうとした際に感じた身体機能の衰えがそれである。「精神的苦痛」とは病気による孤独感や金銭的不安などを指す。「社会的苦痛」とは自らが社会から隔絶されることで生じる苦痛であり、作中においてはセツミがクラスメイトの思い出から消えていったことであったり、主人公が十五センチしか開かない窓から外を歩く社会人たちを眺めた時に感じたものである。最後の「Spiritual Pain」は自らの人生の意味や無力「感」などに抱く不安からくる苦痛である。

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がんの療養と緩和ケア 国立がんセンター がん情報サービス 一般の方へ より(引用文献2)

 

 さて彼彼女らが作中において感じている苦痛は当然のように物語に描かれているわけであるが、作品の主題になっていたものは「Spiritual Pain」ではないかと考えられる。セツミが慟哭していた「一つくらい…好きにさせてよ」のフレーズに代表されるように、この作品は特に冒頭部において無力「感」を強調する描写が多い。

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無力感

 つまらない正月番組を他に何をするでもなく眺め続けたり、死に場所として「七階」も「自宅」も嫌であるにも関わらず容易に逃亡できるB駅にも行かずただ「七階」にいたりする。

 そしてこの「Spritual Pain」に対して「淡路島へ水仙を見に行く」という人生の目的を見出すことで物語はDriveされていくことになるのだ。

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 これらを考えた上で僕の戯言を述べていく。
 まず物語としてはハッピーエンドであるということに関して、僕は譲るつもりはない。上述したようにこの物語は「Spiritual Pain」を抱えたセツミが「水仙を見に行く」ことでその苦痛を解消した物語である。そして最後に自らが選んだ場所で自殺を達成している。これらを鑑みると物語冒頭において指摘されていた無力「感」は完全ではないにせよある程度回復しているわけであって、やはり本人の全人的苦痛はいくらか軽くなっている。よって最後に彼女が自ら命を断っていたとしても、これはハッピーエンドであると考えたい。

 

 片岡とも氏の発言である「眩しかった日のこと、そんな冬の日のこと」のうち「眩しかった日のこと」は「病魔に侵されていなかった頃の思い出」であろう。そして「そんな冬の日のこと」の「そんな」が「眩しかった日のような」に該当するであろう。これらを解釈すると「自らが死ぬと露とも思っておらず厭世感のなかった大昔の感情を、淡路島への死に場所探しの旅の中で取り戻していくことが出来た、セツミの物語」となる。概ね物語の要約であり、やはりこれが全てであるという片岡とも氏の発言は実現されているように僕には思える。


 なお片岡とも氏は非常に上手いライターであり、それは描写の上手さに依っていると思う。例を一つ挙げる。主人公が自らの父親から銀のクーペの鍵を貰った時の描写を以下に示す。

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描写の妙

以下引用
珍しく見舞いに来た親父。
終始、辛そうな顔をしていた。
(中略:見舞いの品を吟味)
ちょうど、俺の嫌いなメロンの前…
(中略:クーペの鍵と免許証を見つける)
あの日、出番を失ってしまったにもかかわらず、出番を待ち続けていた…かつての日常の証しだった。
以上引用

 この描写の中で、私が特に妙を感じたものは「俺の嫌いなメロンの前」という一言である。これらの見舞いの品は当然父親ひいては家族が、主人公のために持ってきたものと解することが妥当である。主人公の「ための」物品の中に、主人公の「嫌い」なメロンが入っていたということである。お見舞の品を選んだであろう父親と主人公との疎遠さを示唆するものであろうと考えられる。この短いいち描写に様々な「背景や感情」を込めることが出来るのが片岡とも氏の上手さであり、私がラムネの総評感想(3)で語った「雰囲気に語らせる」手法である。

 

 この物語を読んで思った物事が、読者にとっての全てであって、私にとっての全ては上に挙げたとおりである。やはりこの作品は死にゆく人の感情の機微を描いた名作であると私は思う。

 


以下引用文献リスト
(1)死ぬ瞬間 wikipedia 2017/11/25 閲覧
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AC%E7%9E%AC%E9%96%93
(2)がんの療養と緩和ケア 国立がんセンター がん情報サービス 一般の方へ 2017/11/25 閲覧 
http://ganjoho.jp/public/support/relaxation/palliative_care.html
(3)エロゲー批評空間 Suxamethonium28さんの 「ラムネ」の感想
https://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=3800&uid=Suxamethonium28