湯豆腐のようななにか

はじめに少しだけ気合を入れて。その後はだらんと。

【映画】ボヘミアン・ラプソディ 総評感想

【映画】ボヘミアン・ラプソディ 総評感想
執筆者:やーみ @suxamethonium28 ※ネタバレ注意

 

www.foxmovies-jp.com

 

 さて世評において熱狂的な高評価を受けている本作を見てきた(X)。

 

 なるほど確かに面白く、同行の友人をして「これは映画ではなくミュージカル」と言わしめた本作の音響演出は素晴らしい。「ボヘミアン・ラプソディ」という曲自体が「オペラ」を意識したと本作で主張されている通り、歌劇か何かを見ているようだった。特にラスト15分位であろうか、ライブ・エイドのシーンはまさに見事な「ライブ」であった。きっとQueenファンにとっては堪らないシーンだったのであろう。

 

 

 と書いている通り本稿の筆者は、Queenに関する知識は全くと言っていいほど無い。「We will Rock you」がQueenの曲であることを本映画で初めて知った。主人公のフレディー・マーキュリーに至っては「誰だあなた」状態であり、ただの胸毛の濃いおじさんとしか認識していなかった。

 

 故に本稿においてはこの映画がどれほど史実と一致しているかについては考察しない。そもそもそういう見方は熱心なQueenファンである先人たちが概ねやり尽くしているであろう。また本稿においては男性同性愛者への差別に関するポリコレ的価値観も一切取り上げない。こちらも熱心なポリコレユーザーや自称社会派のみなさんが概ねやり尽くしているであろう。Queenを毛の頭ほども知らない人間が本映画に関して抱いた感想と、考えた内容とを本稿は書き留めておくものである。

 

 

 長い前置きをここまでにして、私が本映画で一番印象に残った内容は、映画中盤に置いて主人公であるフレディがソロデビューのオファーを受け入れバンド仲間と仲違いしたシーンである。このシーンにおいてフレディは以下のように語っている。
「バンドって何なんだよ。アルバム、ツアー、アルバム、ツアー。こればっかり。飽きちまったよ(うろ覚えだが大意は合っているはず)」

 

 このセリフは中々示唆に富んでいる。このセリフが出てくるまでにフレディは様々な悩み事を抱えていた。「パキ野郎(史実ではパキスタン人ではないようだが)」と呼ばれ英国の昼のコミュニティでは爪弾きにされ、「はぐれもの」同士で夜のバンドの世界で生きていくことになった。

 

 そんな中組んだQueenがヒットした。ヒットは彼らを昼のコミュニティに呼び戻すことと同値であった(c.f. 作中、アメリカで女装ミュージックビデオを公開し大顰蹙を買っている)。そして昼のコミュニティに戻るということはビジネスの導線に乗っかるということであり、彼らはアルバムを作成してはツアーを行い、という生活を送ることとなった。

 

 その中でフレディは自らの性愛対象として男性を魅力的に思うことを自覚する。少なくとも作中において、時代はそれらのセクシャリティを好意的に受け取らなかった。それは女装ミュージックビデオの直前の記者会見シーンが示すとおりであった。

 

 さて彼は元々何故バンドを始めたのだったか。彼は彼なりの「自己実現」があったはずである(一回映画を見ただけではこの「自己実現」を僕の言語で表すことは難しかった)。少なくとも彼にとっての「自己実現」はアルバムとツアーとの繰り返しで成されるものでは無かったから、上述のバンド内仲違いに繋がっていったわけだ。

 

 この現実世界においてバンドは大抵解散する際に「音楽性の違い」を理由に挙げる(a)。これを大人の事情を抜きにして字面だけで見てみると少し興味深い。現実世界の売れっ子音楽家もアルバムとツアーとの繰り返しをしているように私には見える。彼彼女らも音楽を通じて何らかの「自己実現」をしたかったと仮定して、この繰り返しで得られる「自己実現」どの程度だろうか。

 

 マズローは人間の欲求を5段階に分類し、階層構造を作った(b)。下層のものが満足されるとより上位の欲求が生じるという仮説で、下層から順に「生理的欲求(睡眠・空腹など)」、「安全欲求(安全な住環境など)」、「親和欲求(家族友人など)」、「承認欲求(実力を認められるなど)」、「自己実現欲求(さらなる成長を、と)」ある。

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マズローの欲求階層説 野村総合研究所より

 

 アルバムとツアーとの繰り返しを出来る程度の売れっ子音楽家であれば、金銭的にもある程度充足しているであろうから食事に困ることはないであろうし、いい家に住むことが出来るであろうし、親しい人間もいるだろうし、その実力は社会から保証されていることになる。とすれば最後に残るのは「自己実現欲求」であって、それらを満足させるという視点で見れば、フレディがソロ活動を始めたのも、現実世界の名のある音楽家が頓珍漢な政治的主張をし始めることも了解可能になる。

 

 作中では最終的にフレディは、自らの父の座右の銘である「善き思い・善き言葉・善き行い」をライブ・エイドで達成しているわけで、彼の「自己実現」はここにあったのだろうか、と推定することも出来る。

 


 なおこの作品は全体的に説明不足の感があって、これらは意図的にやっているのであろう。やや気が付きにくい可能性がある要素として2つほど考えたことがあるので記しておく。

 

 まずHIVが世界的に発見されフレディが病院に行った際のシーンにおいて、院内の廊下ですれ違った少年に関してである。その少年の右顔面には濃褐色調の隆起性病変が示されていた。多分これはカポシ肉腫を示したものであろう。HIV感染によって引き起こされるAIDSの比較的末期に近い状態で出てくるものであり(α)、AIDSを罹患したフレディの行末を象徴したものであった可能性がある。

 

 

 第2にライブ・エイドにおけるQueen登場前にあった、操作盤(一般に「ミキサー」という(β))のつまみを最低から標準レベルに戻すシーンである。ミキサーとは様々な音源(これにはVocalも含まれる)の音量を調節し、場合によっては簡単なEffectをかけることが出来るものである。あのつまみは「操作禁止」旨の張り紙がされ一番下で据え置かれていたが、これが何を調節していたのかは映画の中で特に紹介されていなかった。大抵のミキサーは一番右にマスター音量のつまみがあるが、一般にマスター音量を最低のままにしておくことは考えにくい(無論ノイズ防止の為使わないときにOffにするのは合理的だが、張り紙の説明がつかない)。

 

 ここから先は私の推定だがあのつまみはフレディのVocalマイクの音量であったのではないか。ライブ・エイド前のシーンにおいてAIDS関連肺疾患の影響かフレディの声の質が落ちているという描写があった。そしてQueenが初めてBBCに登場した際にはBBC担当者から口パクを要請されていたという描写もあった。「音楽ビジネス」の成功のためにはそういった手段が取り得ることを示唆した上で、質の保たれた声をフレディが用意できなかった場合の最終手段として用意されたものであった可能性がある。逆に過去のvocal音源を流すことにした可能性もあるが、それはやや興ざめであろうというものだ。

 

 これらを一々説明していては映画が冗長になってしまうのは事実で、端折ったのは英断と言えよう。

 


 さて長々と書いたが、この映画は面白かった。音楽家の生き様を描いた歌劇であり、音響が最重要となるものだった。これからこの映画を見ようと考えている読者諸兄は、極力頑張って音響が良い映画館を探してほしいと思う。

 

 

以下参考文献

(X) ボヘミアン・ラプソディ Yahoo! 映画

movies.yahoo.co.jp

(a)【バンドの解散】 音楽性の違いって何? – [音楽理論] 音楽学校で学んだ知識

music-school-theory.com

(b)マズローの欲求階層説 用語解説 野村総合研究所NRI

https://www.nri.com/jp/knowledge/glossary/lst/ma/maslow

 

(α)カポシ肉腫- wikipedia

カポジ肉腫 - Wikipedia

(β)ミキサーの種類 サウンドハウス

www.soundhouse.co.jp