湯豆腐のようななにか

はじめに少しだけ気合を入れて。その後はだらんと。

舞台版 Narcissu (2017)感想

舞台版 Narcissu (2017)感想
やーみ@Suxamethonium28

 舞台版ナルキッソスを拝見した。舞台脚本・演出は山添ヒロユキさん。

www.narcissu-japan.tokyo

 

事前注意

 筆者はナルキ1,2をステージなな公式サイトで無料配布されたもののみをプレイしている。断りなく原作と言う場合にはこのゲーム版ナルキ1,2を指している。

 また以下極めて批判が多いので、必要に応じ自衛してください。

 

 10年以上前に公開されたフリーゲームが、時間を超えてこの2017年の年の瀬近くにおいて舞台化された。2007年にもNarcissuの舞台化は成されていたようであるが(1)、詳細不明。場所は渋谷のシアターグリーンであって、ハコとしてのキャパシティは程々程度であろう。印象の限りで述べると一列十数個の座席が計7列程度一般観覧者に公開されていた。そしてそれらの座席は各列1個程度空いており、ほぼ満員御礼と言えよう。10年も前に公開された作品の舞台化でこれらの座席を埋めきる事ができるということは「Narucissu」という原作作品の魅力を存分にアピール出来るものであったと思う(拙稿筆者は土日の昼公園を拝聴した)。

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案内板

 

 さて感想に移ろう。僕の想定していたNarcissuとは全く異なるものが提示された。私の視点であるがはっきりと申し上げて、余りにも酷い。別に演者の演技レベルに関しては、僕は巧拙を指摘できるほどその道に習熟しているわけではないが、そこまで批判するものでもないと思う。問題は脚本で、脚本作成者はNarcissuという物語(特に片岡とも氏が骨と肉と語った無印と2)をどう捉えているのか、私の推定であるが脚本家は原作を「病勢末期の患者が自殺しました。わー悲しいね」としか思っていないのではないか。原作Narcissuを好いていて「眩しかった日のこと、そんな冬の日のこと」の意義を少しでも考えた人間ならば書かないシナリオであろうと思える。正直私は途中から嗤っていた。字義通りの意味で。

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原作(ナルキ2)の象徴的一枚

 何がどう酷いシナリオであるかを説明しない限り上述の内容はただの罵倒であって、それを語っていこう。

 

 まずシナリオを順に総括する(以下適宜(4)を見て、内容を思い出している)。舞台は七階。ナルキ1から10年後の世界。主人公は男性二人女性二人で、女性は七階の看護師一人とセツミの行動を七階病棟の他の患者(後述するがジジと言う)から聞いた女性一人(以下セツミ狂と呼ぶ)。男性の方は一般人二人かと思っていたが、どうやら片方は病勢末期で七階の適応があったようだ(適応がない方をA、ある方をBと呼ぶ)。脇役として五月蝿い双子(以下髪色を取って「緑」と呼ぶ)、直射日光がダメな女の子(以下「傘女」と呼ぶ)、よく発作を起こすメイド服女(以下「メイド服女」と呼ぶ)、脳内に何かしらの病変を持つ中年男性(これがジジ)、やたら患者に高圧的にあたる七階医師、玉ねぎ農家が登場する。

 AとBと看護師は元から面識があって、AとBは看護師を求めて七階へと移動する(イ)。そこでBは傘女に「何回目か」と問われる(ロ)。傘女を適当にいなし、AとBは看護師と合流し、看護師からAとBがセツミ狂を紹介される(ハ)。セツミ狂からAとBは七階のルールを聞く(ニ)。ルールにあったB駅をAとBは見に行く。AとBが七階に戻り、セツミ狂の願いである「セツミが失踪するまでに取った行動を知りたいので、淡路島へと向かうこと」を聞き、その願いを叶えることにする(ホ)。看護師経由で女医に外出許可を取った上で、AとBと看護師とセツミ狂は”真っ直ぐ”淡路島を目指して水戸街道を下った(ヘ)。

 水戸街道と一号線の合流部にて病院の車と遭遇した。中には上述の登場人物のうち四人以外と玉ねぎ農家の女性以外全員がいた。なんでも勝手に七階の住人が病院の車を使って追いかけようとしたところを女医が見つけ、女医は諦めて彼彼女らを連れてきたらしい(ト)。こうして大人数での淡路島への旅が始まった。

 一日目夜には公園で一夜を明かした。その時の食事はコンビニのおにぎりであって、どうやら七階の住人にとっては美味しかったようだ。セツミ狂が「セツミもここを通ったのだろうか」と問うていた(チ)。

 二日目には海辺で遊んだ。メイド服女の一回目の発作発生。セツミ狂が「セツミもここを通ったのだろうか」と問うていた(チ)。

 三日目朝には玉ねぎ畑で休んでいた際に、それを玉ねぎ農家に見つかる。農家はセツミ狂を見て「何処かであったか」と問うと、セツミ狂がセツミの写真を農家に提示する。どうやら玉ねぎ農家はセツミの顔を知っているようだ(リ)。メイド服女が発作を起こしたので会話を打ち切り、そのまま水仙郷へと移動し、水仙郷の食堂で食事を取った。食事の際にセツミ狂が失踪し、懸命の捜索の末発見。看護師がそれを叱責し命の重要性を説いて殴打する(ヌ)。不穏な空気を感じ取ったジジがタイミングよく発作を起こし(チョコレートを食べるといけなかったらしい)て、そのまま死亡した(ル)。間髪入れずメイド服女が発作を起こし治療薬の枯渇でそのまま死亡した(ル)。女医が「死ぬ患者に肩入れすると自分が辛いので、患者に高圧的にあたるのだ」というような自分語りをする(ヲ)。二人の死を見てセツミ狂は「セツミの放浪の目的は死に場所探しだったのだと理解した」と着想を得て、崖から投身自殺する(X)。EDテーマは投身自殺を見届けた看護師の独唱であった。エピローグとして一年後とかにBが七階に入院することになったと語られる。

 

 さてイロハの記号を入れたところを順に突っ込んでいこう。

(イ)AとBと看護師は元から面識があって、AとBは看護師を求めて七階へと移動する。
→原作では七階はご家族ご友人関係者以外立ち入り禁止である。10年の時を経て変わった可能性はなくはないが、現実の緩和ケア病棟のセキュリティを舐めるなと言いたい。

(ロ)Bは傘女に「何回目か」と問われる。
→Bは完全に私服であり、身体機能の衰えなどは一切指摘されておらず、劇中にそれを示唆する表現はない。Bが同類であることに気がついた傘女のエスパー能力に感服する(皮肉)。

(ハ)看護師からAとBがセツミ狂を紹介される
守秘義務は何処に消えたのでしょうか。ナルキ2で「七階はヘルパーさんでも大学生の単位だけを求めてくるような輩は配属されない部署だ」と記載があったはず。

(ニ)セツミ狂からAとBは七階のルールを聞く
→ルールの伝承は「死に行くものたちの間で語り継がれてきた」ことであって、それが破られたのは引き継ぎ先が居なかったナルキ2エピローグの阿東君でしかない。原作破壊の一環である。

(ホ)セツミ狂の願いである「セツミが失踪するまでに取った行動を知りたいので、淡路島へと向かうこと」を聞き、その願いを叶えることにする
→初対面の人間にそこまで入れ込む理由は? 劇中において(ココ重要。原作内ではなく劇中)セツミ狂と距離を深めようとするBに対してAは「死にゆく者に深入りするな」とBを窘めている。その少し後にこのシーンが来た。どうやら脚本家自身が混乱しているとしか思えない。

(ヘ)AとBと看護師とセツミ狂は”真っ直ぐ”淡路島を目指して水戸街道を下った
→言わずともがなであるが、原作では一日秩父の辺りをさまよっているのである。これはセツミ自身の現実逃避と主体性の無さ、いわゆる"Spiritual Pain(詳細は"X"にて後述する)"。果たしてその道程でセツミの感情が判るのだろうか。

(ト)勝手に七階の住人が病院の車を使って追いかけようとしたところを女医が見つけ、女医は諦めて彼彼女らを連れてきたらしい
→病院舐めるな。以上。

(チ)セツミ狂が「セツミもここを通ったのだろうか」と問うていた(複数回)
→通ってましたっけ? 少なくとも一日目の駐車場は通っていないと思うし、海もセツミが通ったのは夜だったと思う。セツミのときには関ヶ原経由だったが、そのエピソードは無かった。「地図の上の知識はあるがそれが現実とリンクしていないので、関ヶ原が豪雪地帯であることをセツミが知らない」という彼女の知識の入れ方に思いを馳せるエピソードであったのに。

(リ)どうやら玉ねぎ農家はセツミの顔を知っているようだ
→セツミは原作において殆ど人と会っていない。明石海峡大橋にて写真撮影を頼まれたカップルだけである。原作プレイ者をこの劇から振り落とす微笑ましい光景である。

(ヌ)看護師がそれを叱責し命の重要性を説いて殴打する
→再掲する。『ナルキ2で「七階はヘルパーさんでも大学生の単位だけを求めてくるような輩は配属されない部署だ」と記載があったはず。』
現実世界の看護師らはプロである。職業を愚弄していないか。

(ル)そのまま死亡した(二回)
→無駄死にである。ここで彼彼女らが死ぬ理由が全く無い。脚本家はこのあとの展開につなげるために必要な死であると主張するかもしれないが、「このあとの展開」がナルキの根幹を否定しているためますます救いようがない。詳細は(X)で後述する

(ヲ)女医が「死ぬ患者に肩入れすると自分が辛いので、患者に高圧的にあたるのだ」というような自分語りをする
→医者を舐めるな。以上。


 さてここまでこの劇の粗筋が原作の仔細な(仔細でも何でもないが、(X)の矛盾に比べれば仔細だ)描写と如何に矛盾しているかを示してきたつもりである。もうこの時点で脚本家は二度とこのナルキに関わってほしくはないものであるが、この後の(X)が余りにも酷く、作品の根幹を否定している。


(X)二人の死を見てセツミ狂は「セツミの放浪の目的は死に場所探しだったのだと理解した」と着想を得て、崖から投身自殺する
→セツミの原作における行動の本懐は「人生の意味の毀損と現実逃避が重なったことによる無目的的な病院脱走をしたものの、阿東君に流される形で水仙を見に行くという人生の目的を再獲得し、彼女自身の「Spiritual Pain」が癒された。そして人生の目的を達した彼女は自ら命を断った」というものであると私はナルキ1の弊総評感想にて述べた(2)。即ち原作ナルキにおいて主張されているテーマは「主体性」と「人生の意味」であって、「自殺は悲しいね」などという問題ではない。このことはナルキ2のあとがきにおいて片岡とも氏が以下のように語っている。

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「ジャンルがジャンルだけに
泣かせゲーになってしまうことを危惧していました。

具体的に言うと、だんだんと弱ってから死に到る描写はさけるのと、
可能な限り、登場キャラ(特に姫子&女の子)に感情移入を、
起こさせないように意識してみました。
(ホントはこれらも、リアルさに繋がることではあるんですけど…)

あ、別にそーゆー泣かせ系がダメって意味じゃないです。」

 

 これだけ見てもNarcissuという物語の主題は「自殺は悲しい」という次元の問題でないことは明らかだろう。

 ところが今回の劇においてセツミ狂はセツミの自殺と放浪の原因を「死に場所探し」と理解しており、これは致命的な誤"解"である。困ったことに彼女の「誤解」を否定的に捉えた上でそれをどんでん返す脚本が劇中で続くことはなかった。すなわちこの劇作家はセツミの自殺の原因を「死に場所探し」であると思っているわけで、これは致命的な誤"読"である。

 「自己の存在意義に関する疑問に端を発する苦痛」が「Spiritual Pain」であることは弊総評感想にて述べた(3)。この劇においてもセツミ狂の女の子も当然のように自己の存在意義に関しての自問自答を繰り返したのであろう。結果「Spiritual Pain」から逃れる方法としてセツミ狂の女の子は「セツミの失踪原因を調べる」というところに行き着いた。よってそれが解消されたためにセツミ狂の女の子も自殺を選んだと解釈することが妥当であると思うがゆえに、セツミ狂の女の子が自殺を選んだことを批判するつもりは、僕は毛頭ない。ただ単にあの原作ナルキにおけるセツミの苦悩を一切合切無視して、まさに"上っ面だけすくい取って"物語を描いた脚本家を大いに批判したいだけである。
 
 今回の舞台版ナルキッソスは、"Narcissu"の物語ではない。その名を語るだけの全く別物である。原作"Narcissu"という物語について思いを馳せていれば出てこないであろう低レベルの脚本は、折角の俳優の好演に砂をかけるがごとき有様であった。


 触れる機会が無かったためここで触れるが、粗筋に殆ど「傘の女」が出てこなかったのに弊感想読者諸兄は気がついただろうか。実際不要な役柄であり、私が邪推するに、この劇のスポンサーである傘メーカーの商品を登場させるためだけの役柄だったのであろう。不要な登場人物が多いことは減点要素だ。

 

 特筆すべき良かった点は、女医の眠そうな演技と、舞台装置Boxの使い方の巧みさのみである。

 

 最後に論理性のかけらもない雑感であるが「衝撃のラスト」だの謳っている作品に名作なし、と。4500円と1時間35分がいい勉強代でした、と述べておきます。

 

以下参考文献リスト

(1)今だからこそ言いたいnarucissuの魅力と感謝(筆者注:2007の舞台の公式サイトを見つけられなかった)

jkflipflopuding.hatenablog.jp


(2)Narcissu 総評感想 湯豆腐のようななにか

suxamethonium28.hatenadiary.jp


(3)Narcissu2 総評感想 湯豆腐のようななにか

suxamethonium28.hatenadiary.jp


(4)舞台版ナルキッソス2017感想

saggdi.blogspot.jp